山城を巡る、男のロマン

7月初めに新潟で行われた学会の帰りに、越後、上州、信濃を結ぶ三国街道の峠の上にある標高800メートルほどの荒砥城(あらとじょう)に立ち寄った。このあたりは5月上旬まで雪に閉ざされていることが多く、熊も出没するらしい。たった一人で山城に登ると、大きなヘビに出会ったり心細いこともしばしばである。

1578年(天正6年)に起った上杉謙信亡き後の跡目争い、御館(おたて)の乱に際し、北条氏康の七男で後に謙信の養子となった景虎の実家である後北条氏の侵攻にそなえて、謙信の甥に当る上杉景勝によって荒砥城が築かれたようだ。

雪深い山中にあり、標高が高く草木があまり茂っていないために、土の城としては曲輪や土塁、横堀、竪堀などの当時の遺構が原形をとどめている。縄張りをみると、主郭を中心として尾根筋に北ノ曲輪と西ノ曲輪を配したコンパクトなつくりになっており、限られた守備兵力で最大の防御能力をそなえている。曲輪のない南の尾根は二重の堀切で大きく断ち切られ、主郭南端の櫓台から集中的な射撃を加えるようになっている。曲輪の入口である虎口は、外枡形と馬出、内枡形を組み合わせた複雑な構造になっており、北と西の尾根から攻めてくる敵の侵入を防いでいる。

この城の虎口は曲輪内にある内枡形が中央が膨らんだ縦長となっており、侵入者をせまい場所に誘い込んで槍によって突き伏せる構造になっている。私もいくつもの山城を巡り歩いたが、このような内枡形虎口を見るのは初めてで、大いに興奮した。もっとも現場は風化がすすみ、ごく浅い窪みとなっているだけで、知らない人だとなにげなく通り過ぎてしまう。こんなちょっとした土の窪みから戦国時代の築城水準の高さと部隊編成や武士の練度までも想像することができることに、男のロマンを感じてしまう。

続いて7月末に大分の津久見市に講演で呼ばれた際に、となり町にある佐伯城(さいきじょう)に登った。毛利高政が関ヶ原の戦功で佐伯2万石を与えられ八幡山山頂にこの城を新しく築いた。この城は一から作られた戦国最後の山城で、総石垣作りという近世城郭としての特徴も合わせ持っている。そのため、尾根筋を断つ堀切もすべて石垣で作られており、昔の山城の姿を現在に残している。西出丸から二ノ丸の虎口に達したとき、往時は石垣上に渡櫓が建てられ、下部が門となっている平入り虎口で通路部分には石畳が残っていた。虎口から二ノ丸内の通路を見ていると、中央部分が広がっていて先端が狭まっている。これは単なる通路ではなく、明らかに縦長の内枡形虎口ではないかと閃いた。お城のガイドブックにも書かれていない大発見!!と心がおどった。これは少し前に荒砥城の土の窪みを見ていたから気づいたことで、苦労が多い山城巡りの面白さを感じた一瞬だった。

2017年8月21日

理事長 近森正幸

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